禅・Meditation・冥想・瞑想・三昧

僧侶Cafeの活動がご縁となり、今年に入ってからお寺ヨガを開催させていただいています。

私、以前から「ヨガはインドの修行法で心身の調和をはかるもの。お釈迦様はヨガの坐る瞑想を行い、それが仏教の坐禅として受け継がれている」という認識はありましたが、せっかくヨガに触れる機会を沢山いただいているのだからきちんと学びたいと思い図書館で探してきました。

著者は保坂俊司さんという中央大学の教授。本の帯に曹洞宗の学者 奈良康明老師が「この本を一冊読めばヨガの歴史が正しく理解できます」と推薦文を書いていましたので借りてみることに。

内容に少しだけ触れますと「ヨーガが瞑想と訳されたわけ」という章では日本にはすでに「定・禅那・三昧」などのような「心の統一によって得られた世界」を表す言葉があったにもかかわらず、なぜこれらの言葉を用いずに「瞑想」という言葉をもちいるようになったのか、保坂氏の考察がされています。

日本最初の本格的な英和辞典である『薩摩辞書』で”Meditation”という外来の言葉にあてられたのは仏教的な瞑想の意味である「禅」「三昧」「定」などではなく、老荘思想に端を発する日本では馴染みの薄い「瞑想・冥想」という用語であった。

(中略)

この時以来、「行」すなわち宗教性や精神性が希薄になったのである。このことが、今日我々が、仏教の伝統とヨーガを直接結び付けられて考えられない大きな原因である。

明治・大正以降の思想界に影響を与えた井上哲次郎らがヨーロッパの言葉を翻訳するための用語の決定に際して、深い思想世界を表現する仏教用語を「あえて」用いなかった。その背景には当時の廃仏毀釈があり、旧来の思想との決別という明治時代独特の風潮があり、精神世界を表す言葉を極力仏教の伝統から切り離すことをめざしたという事情によるものであったと推察しています。

我々が仏教とヨーガの結びつきに違和感を持つとすれば、それは近代日本文化の中に大きな理由があったということで、本書では日本の特殊事情から抜け出しグローバルな視点で仏教とヨーガを考えるというスタンスをとっています。

僧侶Cafe次回開催の案内

10月16日にチルさんで開催させていただきます。まだまだ申し込みは可能です。当サイトからお申し込みください。皆様のご参加をお待ちしています!

僧侶Cafeとかち広報・織田